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“ガイジン”って、“日本人”って、何?
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桃山学院高等学校 李 哲秀(リ チョルス)
私は日本で生まれ育った在日韓国人3世です。高校生の頃までは日本名を使い、自己のアイデンティティーのことで悩み苦しみました。大学時代の朝鮮文化研究
会での活動により、自己の民族と向き合い、母国語の習得等を通して自分が朝鮮人(韓国人・朝鮮人の総称)であることに何がしかの誇りを持てるようになりま
した。そのような私が英語教師として教壇に立ち、今年で11年目になります。
教師になってからというわけではないのですが、最近、気になる言葉があります。
日本ではよく“ガイジン”という言葉が平気で使われていますが、一体どう
いう意味として使われているのでしょうか?外国人の略称として使っているのか、外見上、それもおそらく欧米系で英語を話すであろう人のことを指すのか。ま
た、丁寧形として“ガイジンさん”も頻繁に見聞きします。
本校の米国人留学生から来日間もない頃よく聞かれた質問に、“What
does GAIJIN mean?"
がありました。ここ最近はあまりそういった質問はされていませんが、4、5年ほど前まではよくされました。電車の中や歩いていたりすると、「ガイジン、ガ
イジン」と言われ続け、不快な思いをするということでした。おそらく日本の日常会話で一般的に使われている“ガイジン”というのは、外見上、日本人っぽく
なく、欧米系の人々を指しているように思えます(しかも白人系)。仮にいくら親しみを込めたつもりで言っていても、何度も何度も言われ続けていると嫌な気
分になる人も多いに違いありません。日本での滞在が長くなり、日本語が堪能であるのに外見で、ガイジン、ガイジンと呼んでしまうのは無意識のうちに依然と
して、日本人の中に排他主義的な考え方が存在していると思えてなりません。少し言い過ぎかも分かりませんが、そのような言葉は一般的に耳にするだけでな
く、学校や教育の現場でもよく耳にし、その都度違和感を覚えます。ましてその方が国際理解教育や国際化を目指した教育に力を入れている教育者である場合は
非常に残念な思いをします。
特に私の場合は、日本において“外国人”として扱われており、いわゆる外国人登
録(ガイジン登録)なるものを強いられている状況で、そのような“ガイジ
ン”という言葉に対しては敏感になってしまいます。
実際、私の場合、日本において外国人として扱われる時と“日本人”として扱われ
てしまう時があります。(決してガイジンと呼ばれた事はありませんがノ)
一般に学校現場で、英語のネイティヴの教師以外は全て日本人教師であると思ってか、「日本人教師は…、そしてネイティヴは…」という表現がよく使われてい
ます。会議の場や英語関係の研究会や講演会でそのような言葉を聞くと、非常に疎外感を覚えます。日本人ではない自分が勝手に日本人の中に含まれてしまい、
英語のネイティヴではないのでネイティヴには勿論含まれない、自分はどこにも含まれないという意識が働きます。言葉を教える立場であるが故に言葉には非常
にこだわりを感じますし、言葉を教え、様々な国の文化を、授業を通して伝えているであろう英語教師からそのような発言を聞くと、特に憤りを感じざるを得ま
せん。
また、文部科学省が「英語が使える日本人の育成」というスローガンを打ち出して
からも、様々な日本の学校現場や研究会で「英語が使える日本人」という表
現が使われています。文科省などが、「日本人は…。」という表現を使うのはある意味仕方がないとは思いますが、各種研究会が「英語の使える日本人を育成し
よう!」等、やたらと日本人を強調して言うのは、日本の学校には日本人だけが存在し、いかなる外国人生徒・外国籍生徒も存在していないという認識を持って
いると捉えられても仕方がありません。
昨年度の3月にも、ある国際理解教育に関する研究会で、「日本人の、日本人によ
る、日本人のための英語教育」というテーマで講演会・研究会が実施されてい
ました。この中での“日本人”とは一体何なのでしょうか?日本の学校現場で学んでいる生徒、教えている教師(英語ネイティヴ以外)は全て“日本人”である
とでも錯覚しているのでしょうか?私のような立場の人間はこの中でも排除されてしまっているのです。このような表現が書かれた案内状を見ると、「何が国際
理解なのか、日本社会の内側が見えず、日本は完全な単一民族国家であるような認識で一体どんな国際理解教育を学校現場で進めようとするつもりなのか」と感
じざるを得ませんでした。せめて学校現場、教育者側だけでも少数者を排除してしまう恐れのある表現・言動は慎んでいただきたいものです。
和の精神を重んじる日本文化は素晴らしいものだとは感じていますが、みんな同じで
なければいけないとか、同質性のみを強調し過ぎるあまり、異質なもの・相
異なるものを排除してしまうような考え方がいつまでも蔓延し続けると、日本の真の国際化は達成されないと思います。また、このような大人(教師)の考え方
が子供達に伝わり、異質なもの・相異なるものを受け入れられずに攻撃に向かう日本の“イジメ”は典型的な例のような気がしてなりません。大多数のみんなと
は違うというだけで悩み、おびえ、苦しまなければならない、その為にみんなと一緒、同じであろうとする心理が子供達、いや大人の中にも依然として存在して
います。このままではいつまでたってもこのような悪循環は日本において消えてなくならないと思います。
日本の学校教育の中で様々な国の文化を伝え、教える機会の多い英語科教員が真に自
国の文化、特に物の考え方を深く見つめ、異文化を理解し、互いに認め合う
ことのできる教育を、再度、自らが考え、学び、実践して行く必要性があるのではないでしょうか?
私自身も生まれ育った日本、祖国である朝鮮文化を再度見つめ直し、
その上で、他の
国々の文化への理解を深め、それらを少しでも多く生徒に伝え、理解し、行
動・言動に結びつけてもらえるような教育を実践していきたいと考えています。